小堀遠州

 小堀遠州は天応七年(一五七九年)に生まれました。

父新介正次と供に家康に仕え、父の死後、その遺領を継いで大名となり、仙洞御所や駿府城の作事奉行をつとめ、修造にも才を発揮して従五位下遠江守を授かり、遠州と呼ばれるようになりました。

その後も、禁裏や二条城などの多くの作事を手掛け、公武作事奉行の第一人者になりました。

又、茶の湯の中に王朝文化を取り入れながら「武家の茶」を確立すべく工夫をし、三代将軍家光の茶道の師範となり、品川御殿で将軍家光を招いた茶会を開いています。
 
 小堀遠州流

 桃山時代に千利休に大成された茶の道は、江戸時代に入り大きく二つの道が分かれました。

一つは利休の孫、宗旦より広められた「侘茶」です。

宗旦と同じ時代を生きた小堀遠州は、大名として宗旦と違う立場から、利休の弟子である古田織部の茶の道を継承して「きれいさび」と言われる芸術茶を確立いたしました。


「きれいさび」は千利休の「侘び」を基盤としながらも、造詣の深い和歌や藤原定家の書跡など王朝文化の要素も取り入れ、より洗練されたものになっております。

小堀遠州流は、その小堀遠州を祖と仰ぎ 小堀家分家として徳川将軍家と関わりを持ちながら、明治期に至り小堀遠州流家元として、茶道教授の門を開き、現在小堀宗圓家元で十六代を数えています。
 
 
 十六代家元 小堀宗圓宗匠
 
 
 十五代家元 小堀宗通宗匠